【羊の瞞し】第4章 EGOISTICな羊 ?

「アキさんは、ピアノ業界に戻るつもりはないのですか?」

 林田は、今度は間違いなく酔っている。なので、これが最後の質問になるかもと思い、願望を込めた質問をしてみた。すると、意外な話を聞かせて貰えることになった。

「戻るも何も、今も繋がってるさ。裏ルートだけどな。木村ともずっと連絡取り合ってたし……木村のヤツ、ヘマしたみたいだな。運が悪かったと言うか……アイツ、夜逃げしたそうだぜ」

「ご存知だったんですか?」

「何のこと?夜逃げのことか?それとも、木村がクビになったことか、その理由のことか……」

「木村さんが何をしていたかってことです」

「カードの裏工作だろ?そんなもん、手口は色々だけど、嘱託は皆やってるさ。それにな、木村の手口は俺が教えたんだよ。こうすれば客取れるんじゃない?ってアイデアをな。実際にやるかやらないかは、俺の知ったこっちゃない」

 いくらなんでも、それでは余りにも無責任過ぎる気がした。咎めるつもりはなかったものの、つい響は口を挟んだ。

「でも、木村さんはその所為でクビに……」

「俺のせいだと思うか?まぁ、直接的にはそうかもな。でも、木村は嘱託になった時点で終わりだったんだ。これは、結果論じゃない。現に、俺は反対したんだぜ。嘱託に新規なんてまず回ってこないし、カードは減る一方。個人で顧客を増やそうにも、アイツの性格じゃ厳しいだろうし。最初から、こうなるのは分かり切っていたんだ。それとな、発覚した不正とは別件だが、間接的には響の所為で苦しんでたところもあるんだぞ」

「え?……オレが?」

「そうだよ。7月に教室の30台、お前が全部やったんだろ?アレもな、単価は下げられるけど嘱託調律師にとっては美味しい仕事だったんだ」

 そう言えば、教室のピアノの殆んどに、木村のサインが書いてあったことを思い出した。

「ここ数年、少なくとも3ヶ月に一度、木村にはまとまった仕事が入ってたんだ。それを、お前に取られたんだから、堪ったもんじゃないよな。年間4回だから120台か。まぁ、単価からしたら、年収の2割程度だろうけど、フリーの調律師には痛いだろな」

「そんな……オレ、木村さんから仕事取ったなんて、思ってもみなかったです」

 間接的とは言え、結果的には自分が木村の仕事を奪ったことになる事実に、響は戸惑い、申し訳ないような気持ちになった。

「響が悪いんじゃない。会社からすれば、嘱託に頼むとな、備品とは言え有料になるだろ?単価は一般調律より安いだろうけど、多分1台4〜5千円は払うんじゃないか?30台だと、12〜15万円だ。それよりもさ、基本給の安い響に、勤務時間内にやらせばいいに決まってるよ。誰も悪くない。至って当たり前の結果なんだ。たまたまこの数年は、新人調律師を採用しなかったり、採っても定着しなかったから木村に依頼が回っていただけだ。かと言って、こうなることを想定出来なかった木村が一番悪いんだよ」

 確かに、林田の言う通りなのだろう。客観的に見て、会社の選択も当然だろうし、嘱託ならそれぐらい覚悟しておくべきなのだろう。

 分かってはいても、自分がその当事者となり、木村を苦境に追い込んだという事実は、少なからず響を苦しめた。

「……話が逸れちゃったけど、ピアノ業界に戻らないのか?って質問だったよな?さっきも言ったけど、今も繋がってるぜ。木村は、興和の客でも移動の依頼があれば、俺に直接頼んでいたよ」

「どういうことですか?」

興和楽器の運送屋……って、俺もついこの間まで働いてた乾ピアノ配送センターのことな、あそこにUPの県内移動を頼むとな、興和楽器を通すと2万円なんだ。でも、木村には一銭も入らない。なので、俺は個人的に木村に頼まれた時は、8千円で請けてあげてたんだ」

「もちろん、1人じゃ運べないから、木村本人にも手伝わせてたさ。アイツが客から幾ら取ってたのか知らないけど、ちょっとした小遣い稼ぎにはなった筈だ。アイツには興和の利益を奪ってる罪悪感なんてないだろうし、俺も乾ピアノ配送の仕事を横取りした罪悪感はない。結局、一番得するのは客だし、興和も乾も損するわけじゃないからさ、ま、俺たちのエゴかもしらんけどな」

「それって、興和楽器にバレたら、ヤバイことなんですか?」

「そりゃあ、ヤバいだろうな。興和の客は興和に依頼するのが筋ってもんだ。多分、そういうことは嘱託契約書にも明記されてるはずだ。興和楽器と乾ピアノ配送センターは業務提携しててな、本当は興和楽器の仕事は35%のバックマージンが支払われるんだ。つまり、県内移動だと、一件当たり7千円も興和楽器に入ってくるってこと。興和にとっては、運送も立派な仕事なんだよ。むしろ、電話だけで一件当たり数千円入ってくるから、美味しい業務だよ。でも、嘱託が運送を依頼しても、興和の利益にしかならないんだ。かと言って、嘱託が興和の客のピアノの運送を他所の業者に手配したら、それこそクビになるだろ?だから、内密に俺に相談してたってわけ。でも、そもそもが身勝手で傲慢な取決めなんだよな。嘱託にも分け前を幾らか渡してれば、こんな裏取引も発生しないんだよ」

 響は、運送が調律師の売上げに貢献しているなんて、全く想像すらしていなかった。なので、林田が説明してくれた具体的な金銭の動きは、響には正に寝耳に水の話だ。新たな学びでもあるし、驚きでもあった。

「でも……それって、アキさんもヤバくないですか?」

「確かにリスクは大きいね。以前は、会社のトラックをコッソリ拝借しないといけなかったからな、毎回ヒヤヒヤもんだったぜ。でも、今使ってるユニック付きのトラックあるだろ?今日パンクしたヤツ。あれさ、実は4年前に買ったんだ。ピアノに限らず、俺も個人的にコッソリ他所から仕事請けたりしてたんだよね。あ、そうそう、因みに俺、乾ピアノ配送センターの社員じゃなくてさ、あくまで、バイトだったんだ。社員より偉そうにしてたけどな。だから、自分のトラックを買ってからは、本当はコソコソする必要もなかったんだけど、おおっ広げにすることもないだろ?それにな、木村だけじゃなく澤崎さんも俺に依頼してるんだぜ。俺が良くても、二人は知られたくないだろうからな、コソコソやるしかないんだ」

 澤崎は、興和楽器のベテラン嘱託調律師だ。とても生真面目そうに見える女性調律師で、主婦でもあり、確か響より年上の息子もいたはず。しかし、彼女も木村と同じように興和楽器の規約に反し、運送の仕事は横取りしていたということだ。

「澤崎さんなんて、50前後のおばさんだろ?運送の時は自分じゃ手伝えないから、木村に幾らか払って手伝わせてんだぜ。もっとも、アイツ、幾らで請けてたのか知らないけど、喜んでやってるように見えたな。多分、澤崎さん本人は2〜3千円しか入らないはず。それでも、興和に頼んだら0だからな、それよりはマシだろう」

「そんな……澤崎さんなんて、ご主人も会社の経営者ですよね。わざわざそんなリスク犯すこともないような気もするのに……」

 すると、林田は微かに笑みを浮かべ、更に想定外の話を教えてくれた。

「そうだよな、運送だけならたかだか数千円だもんな。でも澤崎さんの凄いところはな、運送のついでに必ず他の仕事も取ってくることだ」

「え?……あのぉ、意味が分かりません」

「つまり、移動と言ってもな、そのまま送り届けるんじゃなくて、一旦澤崎さんのご自宅の倉庫に入れるんだ。で、クリーニングとか整調とか何らかの作業をしてから届ける。客には作業代も請求するんだよ。その辺が彼女の凄いところでな、どうせピアノを動かすなら、ついでにその時にしか出来ない作業もやっておきませんか?って上手く話をまとめるんだ。インシュとかカバーとか椅子もよく売るし、澤崎さんにとっては運送は美味しい仕事なんだぜ。それを真面目に興和を通してやってたら、運送代どころか作業代も吹っ飛ぶわけだろ?そりゃ、多少のリスクぐらいは目を瞑るって」

 林田は、他の嘱託調律師の噂についても、色々と教えてくれた。木村のように興和の客を取るのは当たり前で、中にはこっそり他店の嘱託を兼ねている人もいた。興和楽器の嘱託調律師で不正を働いていたのは、木村だけではなかったのだ。

 逆に言えば、真面目に興和に尽くしているようでは、嘱託調律師はやっていけないのだろう。会社の為ではなく、自分の為を優先する。よく考えたら、当たり前の話だ。そうしたところで、袴田のような安定は担保されないのだから、皆必死に仕事を取るのは至極当然な話だ。

 しかし、父宗佑はどうだったのだろう?嘱託調律師よりも、もっと安定感のないフリーの調律師だ。それなのに、ガツガツと仕事を取ってくる気概のようなものは、一切感じられない。リスクを犯すこともなく、自分から動くこともない。

 おそらく、宗佑には調律師の理想像しか見えていなかったのだろう。林田のような観察眼が少しでもあれば、違った調律師人生を歩んだのかもしらない。社員調律師を継続し、袴田のようなポジションに収まっていたかもしれないし、林田のように早々と見切りをつけ、別の道を歩んだかもしれない。

 沢山の可能性があった中で、響には、宗佑が一番不適切な選択をしたようにしか思えなかった。真面目過ぎた上、エゴも強欲さも行動力も欠けていたのだ。調律師としての技量は誰よりも優れているのに、調律師には一番不向きな人間なのだ。

「響もさ、金が要るんだろ?これから外回りをしてると、時々運送の手配も頼まれることもあるはずだ。もし、ちょっと小銭稼ぎたければ俺に相談しな。もちろん、会社の規則を優先したければそうすればいい。お前が判断しな。俺は、県内移動は8千円で請けてるからさ、響が自分で手伝えるなら、客には好きな金額を提示すればいいさ。差額がお前の取り分になるから。もし自分で手伝えないなら、こっちでバイトを一人雇うから5千円追加だ。仮に18,000円で取ったとしても、何もしなくても5千円はお前のものだぜ」

 そう言われても、なかなか実感のない話だ。会社にバレたら……と心配になる以前に、まだ空を掴むような話でどうすべきかなんて響には全く分からない。

「もしそんな機会が本当にあれば、その時に真剣に考えます」

 これが、今の響に出来る、精一杯の返答だった。

 その日は、意外と直ぐに訪れた。

 いつものように終業後、林田の事務所を訪れた響は、そこで意外な人物に会ったのだ。

「あら、松本君、お疲れさま」

 親しげにそう声を掛けてきたのは、興和楽器の嘱託調律師である澤崎久子だ。一瞬、会社に内緒のアルバイトがバレたのか、と焦ったが、澤崎も林田に運送を頼んでいることを思い出した。

「おぅ、響、お疲れさん」

 林田が奥の倉庫から顔を出し、響も挨拶を交わした。

「なぁ響、興和楽器って月曜定休だろ?来週の月曜日、予定入ってるか?」

 林田に聞かれ、響は慌てて手帳を確認した。確かに月曜日が定休日ではあるが、それはショップの話だ。外回りを行う調律師にとって、休日はあってないようなもの。興和楽器では、一応週休二日制を取っているが、調律師は自己申告のシフト制で、2日分休んでもいい、というアバウトな勤務体制だ。

 1日を9:00〜12:00、13:00〜16:00、16:00〜19:00の三つのシフトに区切り、週に6シフト分休みを取ることになっている。中でも、やはり月曜日はなるべく終日休みにする調律師が多い。ショップだけでなく事務も閉まってるので、何かと不便だからだ。とは言え、月曜日指定のお客様も意外と多く、終日休みには出来ないこともある。要は、ランダムに6シフト分休めるのだが、消化出来ないことの方が圧倒的に多い。

「来週は、午前のシフトだけ調律入っちゃってますが、午後はずっと空いています」

 そう伝えると、林田は澤崎に「午後でも大丈夫ですかね?」と何やら確認していた。澤崎が軽く頷くと、「響、午後から一台ピアノを運ぶから手伝ってくれるか?」と林田は言った。

 間髪入れず、澤崎が後を継いだ。

「木村君がいなくなったでしょ?だからね、これからは松本君に手伝って欲しいの。6千円でどうかしら?それとね、二週間後にもう一度運ぶから、予定を空けといて貰えると助かるわ。もちろん、その時にもまた6千円お支払いするわよ。どう?やってくれる?」

「響、澤崎さん直々の指名だぞ。もちろん手伝うよな?」

 二人から畳み掛けられ、響は冷静な判断も出来ないままに引き受けてしまった。

「でも、オレ、ピアノを運んだことないですよ」

「そんなもん、木村でもやってたんだぜ。俺の言う通りにやってれば、どうってことないさ」

「松本君なら、木村君よりずっとパワーありそうだもんね。しかも、若いんだから大丈夫よ」

「……やらせて頂きますけど、自信ないっすよ」

 しかし、澤崎の依頼で行ったピアノ運送の経験は、後々の響に多大な影響を与えることになった。

 響にとって初めてのピアノの運送は、幸いなことに、搬出はスムーズに済んだ。ピアノは小型のアップライトで、ゆとりのある搬出経路も確保出来、段差も少なかった為、大した労力も必要なく、林田の指示に従うだけの簡単な作業だった。

 そのピアノは、そのまま澤崎の自宅に運び込んだ。自宅の庭に立てたプレハブの簡易倉庫を、澤崎は自分の工房として使っているようだ。宗佑の工房と比べると、とても小さく設備も整っていない。塗装や張弦などの大掛かりな修理には対応出来ないだろう。しかし、女性が一人で使う分には、十分だ。このピアノも、外装クリーニング、ファイリング、整調だけを行うそうだ。

「素敵な工房をお持ちだったんですね」と話し掛けてみると、澤崎は「簡単な作業しか対応出来ないけどね」と言った。

「オーバーホールとかの仕事って、どうすればいいのですか?」と響は純粋な疑問として質問した。

「基本的に、興和楽器はオーバーホールはやらないわ。それぐらいなら、買換えを勧めないといけないし、お客様からどうしてもって言われても、出来る人がいないじゃない。もし決まったら、メーカーに丸投げしてるそうよ」

「でも、袴田さんは、やらないのですか?」

「袴田君?出来るわけないじゃん!彼はね、整調と整音は上手いけど、修理なんか全く出来ないわよ」

「えっ!そうなんですか?袴田さんは、何でも出来るんだと思ってた……」

 澤崎の話では、現在の特約店には、大掛かりな修理が出来る調律師なんてまずいないとのことだ。

 昔は、手作りメーカーや修理工房なので研鑽を積んだ調律師も多く、何処の特約店にもそれなりに修理が出来る調律師も在籍していたそうだ。しかし、ピアノの爆発的な普及を背景に調律師を養成する学校が増え、メーカーも販売店も外回り調律を行う調律師を大量に必要としたのだ。短期間で最低限のことを詰め込まれた調律師には、修理を学ぶ時間もノウハウもなかっただろう。

 また、ピアノを売ることを第一義とする業界において、今となってはメーカーや販売店にはオーバーホールを行うメリットはないのだ。つまり、時間が掛かり、設備も必要でリスクも大きいオーバーホールより、買換えを勧める方が得策という判断だろう。

「澤崎さんも、オーバーホールの仕事はやらないのですか?」

「私はね、出来るものならやりたいわ。でも、ここじゃ無理だし、そもそもそんな技術もないし。なので、浜松の工場に外注出してるわ」

 響は、急に思い付いたことがあり、一か八か澤崎に聞いてみた。

「もしオーバーホールの仕事が入ったら、僕に任せて頂けませんか?って言うか、僕には出来ませんが、知り合いにオーバーホールのスペシャリストがいるんです。彼にやらせて、僕も学ばせてもらおうかなって思ったんですけど……無理ですか?」

 そう告げる、澤崎は一笑に付した。

「無理無理!松本君、オーバーホールってそんな簡単なことじゃないわよ。オーバーホールって言いながら、クリーニングしかしてない人もいるのよ。そういう類じゃないの?」

「違います。フレーム外して響板とかフレームを塗り直して、アクションもレンナー製に付け替えて、塗装まで出来る方です」

「本当に?そのスペシャリストって誰なの?この地方の方?私の知る限り、今も現役でやってる修理の技術者って思い当たらないわ……昔は一人いたんだけどね……でも、そうねぇ、それだったら、一度その方の仕上げたピアノを見てみたいわ。その仕上がりによっては、お願いするかもしれないし」

「そうですか……う〜ん、何とかお見せ出来る方法を考えてみます……」

 何か良い案はないかと考え込む響に、林田が声を掛けた。

「おい、響、いつまでグダグダ喋ってんだ!そろそろ帰るぞ!じゃあ、澤崎さん、うちらはこれで失礼します。こいつの納品は、再来週の月曜日で良かったですよね?」

「えぇ、それまでには仕上げておきますので、よろしくお願いしますわね」

「こちらこそ、いつも助かります」

「松本君もありがとう。次もお願いしますね。あと、さっきの話、本気だったら考えといてね」

 澤崎との約束を果たす方策を考える前に、10月になった。響は、予想通り教室の調律を行うように命じられた。7月の時とは違い、今は外回りもしている為、せいぜい10台ぐらいだろうと予想していたが、幸か不幸か、またしても30台全部やるように言われたのだ。しかし、前回の悪夢を思い出しつつも、今回はもっと上手くやれる自信があった。多少の手抜きも覚えたし、仕上がりの水準もあの程度で良いという目安を知ったからだ。

 響にとって想定外だったことは、今月は教室の30台を実施すれば、外回り調律はやらなくていいのかも、と少し期待したのに、どうやらそんなに甘くなかったことだ。備品調律も実施台数にカウント出来ると聞いていたが、厳密にはそれは半分間違っていた。備品の場合、一台を0.5台とカウントするそうだ。つまり、全部やっても実績は15台となる。となると、やはり残り15台は外回り調律を組まないといけないようだ。

 木村もここ数年、この時期はレッスン室を担当していた為だろうか、10月分の定期カードは少なかった。まだアポ取りスキルの未熟な響は、定期カードからは5件しか組めなかったのだ。なので、不定期や繰越のカードを片っ端から電話掛けしたものの、とても15台には届きそうになかった。

 最後の望みは、スリープの掘り起こしだ。ただ、9月には20件ぐらいスリープを掘り起こしたが、実施に繋がったのは0件だった。既にピアノを所有されてない方も4〜5件あったし、一方的に電話を切られた家もあった。なので、あまり手応えはないのだが、他に有効な手立ても見つからない。なので、思い切って、スリープの中でも特に古いカードを掘り起こしてみることにした。

 すると、もう20年以上も眠っているカードが、チラホラと出てきた。中には、最終実施から30年以上経過しているカードも何枚か見つかった。流石にそこまで古いと、なかなか電話が繋がることさえ稀だ。既に転居されたのだろうか、違う名前の方が出られることもあった。ようやく繋がった一件も、もう何年も前にピアノは処分したとのことだ。

 やはり、古過ぎるカードだと無理なのかな、と諦めかけた時、ようやく一件のアポが取れた。しかも、明日にでも来て欲しいと言われたのだ。何という幸運だろうか。翌日の午前中のシフトは休みを申請していたのだが、そんなことお構いなしに、響は午前中に訪問する旨を伝え、了承を得た。

 改めてカードを確認すると、買収される前の愛楽堂の顧客で、何と26年振りの調律になるようだ。そして、当時メンテナンスを行っていた調律師のサインを見ると、坂下と書いてあった。どこかで聞いた名前……そうだ、確か袴田が澤崎のことをそう呼んでいた。どうやら、彼女が独身の頃に担当していたピアノらしい。