古戦場めぐり「国府台の戦い(千葉県市川市)」

古戦場めぐり「国府台の戦い(千葉県市川市)」

◎『国府台の戦い』

国府台合戦」(こうのだいかっせん)は、戦国時代に下総国国府台城(千葉県市川市)一帯で、小田原北条氏と里見氏をはじめとする房総諸将との間で戦われた合戦です。天文7年(1538)の「第一次合戦」と、永禄6・7年(1563・64)の「第二次合戦」に大別されます。

?『第一次国府台合戦』

「第一次国府台合戦」は天文7年(1538)、北条氏綱小弓公方足利義明 / 里見氏連合軍との戦いです。遡ること永正15年(1518)、足利義明・上総武田氏連合軍に小弓城合戦で敗れた原氏が、同族の高城氏、千葉氏とともに北条氏へ接近します。北条氏武蔵国に侵入を進めており、天文6年(1537)には扇ヶ谷上杉氏の河越城、翌天文7年(1538)(第一次国府台合戦の8ヶ月前)には葛西城を攻略しています。次に狙うは、下総・上総・安房です。一方、義明は里見氏との連携を取りました。第一次国府台合戦は天文7年(1538)、この勢力の対立が頂点を迎えて起きた合戦です。足利義明は里見義堯ら軍1万を従えて国府台城入り、北条氏綱は嫡男の氏康ら軍2万を従えて江戸城入りします。里見義堯らは、「北条軍の江戸川渡河中に討つべし」と進言しますが、義明が却下されます。このように戦略で意見が食い違ったため、里見義堯は義明を見殺しにして戦線離脱します。以後、北条氏の下総から南への侵略が始まります。渡河した北条軍は、松戸城(戸定が丘歴史公園)に上陸して陣取ったとされます。\xC1

衞和羮襦幣掌傭羆蕙瑋猊婉瓠房鯁佞之秬錣箸覆蝓⊄㌫瑭遡世脇い岨爐砲靴泙后◀海海如⊂侊欷畯鈇鰐破瓦靴泙靴拭A衞肋襪琉貮瑤箸気譴訐仔疎膤惺仔發砲蓮◆崛衞和羸鐇徃蝓廚ⅲ絜辰討い泙后A衞和羮襪任寮錣い蓮◆崛衞和羚臉錙廚噺討个譴討い泙后6饌療Ľ聞臉鐫呂鰐世蕕ǂ任覆い發里痢ゟ掌誉遽茲い陵彌蠡翆呂箸いΔ海箸如∩衞和羝瑋爐△燭蠅犯翊蠅気譴泙后▷愡埓郢毀影彬棔戮砲茲襪函〵遡世聾什澆痢嶇騨僚濵丗隋槽素ʍ菑廚△燭蠅某悗鯢澆い董∨名鮴Ľ亮舂呂ⅴ馼楝罎紡任辰峠个襪犯獣任靴泙靴拭◀修靴橡名鮴Ľ琉貮瑤❶⊂掌擁鑱未ǂ蘿惴紊鵬鵑襪海箸鯀忙澆垢襪燭瓠⊊把堵賛様い蕕隆道詆徧發鯀衞和罎肪屬④泙靴拭K名鮖瓩蝋掌余襪之撹渉蠅魍ǂ①⊇仗悗靴泙后﹅掌佑梁亟澆肪◀掘ゟ掌誉遒療浪呂鮗損椶靴泙靴拭C里蕕擦鯤垢い慎遡世蓮⇔じʊ藻,良徧發鮃馼楝罎忙弔掘∩衞和罎慂爾鮨覆瓩泙后◀垢任頬名鮴Ľ琉貔鮧徧發賄浪呂鮟Ľ┐討い泙靴燭❶⊆ɕ丨ǂ蕕ʊ遡世六弔蠅療浪呂鮓ὰ呂韻襪海箸鮖惻┐靴泙靴拭▷惺馼楝羚臉鏥①戮覆病燭唎僚駟Ľ如¬桔徒戯槪世犯稟重Ľ傍Ⅸ劼気譴討い泙后D把鼎\xE9200人が死力を尽くしますが、北条勢は5倍であり、次第に後退を始めます。そ

こへ義明の軍が加わり一大合戦となります。義明の御曹司・義純と義明の弟・基頼が、氏綱の本陣に突入し戦死しました。義明は単身敵中に討ち入り、続いてくる味方を待っていましたが、北条勢の横井申助により三人張りの剛弓で射抜かれました。そして、松田弥三郎に首級を挙げられました。義純の弟・頼純は、戦場からの離脱に成功しています。北条勢も苦戦を強いられたためか、敗走する小弓勢を追撃することなく、小田原に撤収しています。ここで里見義堯の軍が力を残したままの撤退だったので、北条としては第二次国府台合戦の機会を与えてしまったことになります。

?『第二次国府台合戦』

「第二次国府台合戦」は、北条氏・千葉氏と里見義弘(義堯の嫡男)の戦いです。永禄6年(1563)、北条氏康武田信玄の連合軍が、上杉謙信方の城を攻撃しました。そこで里見義弘が上杉方の援軍に向かいますが、北条軍が国府台で援軍を阻止しようと合戦が始まります。このとき同盟を組んでいた太田資正が、里見の援軍にきています。開戦のきっかけには、もう一説あります。北条方の配下である太田康資が、上杉謙信への寝返りを試みますが失敗し、太田資正を頼ります。法音寺(墨田区太平にある法恩寺)で謀議を交わしましたが、住職が北条方に密告しました。里見軍はこれを救出すべく、国府台城に布陣しますが、対する千葉氏が北条氏に援軍を求め合戦になりました。北条側の先陣は葛西城の遠山直景(綱景?)、富永直勝(富永三郎)でしたが、本隊である北条氏康・氏政の到着を待たず、矢切の渡しを渡り里見軍を攻めました。先駆けの理由は、太田康資の寝返りに責任を感じていたからだと推察されています。里見軍はいったん引き上げましが、激戦地となる「大坂」を登ったところを坂上から狙い、遠山・富永の両者を討ち取ります。初戦を有利に進めた里見

軍でしたが、戦勝祝いの酒に酔いしれていた夜半、北条氏康と氏政の挟み撃ちに合います。北条勢の夜襲および万木城主・土岐為頼の寝返りを受けて、里見軍は大敗し、正木大膳こと正木信茂は討死します。里見義弘は土気城の酒井胤治に救出されて、戦場を脱出します。その後、里見がこの地で再起することはありませんでした。

第二次国府台合戦で敗退した里見氏の一部が、曽谷に逃れ隠れ住んだという伝承があります。そしてこの曽谷では、月見をしてはいけない俗信があります。宴で月見をしていたときに、北条氏の奇襲を受けたことから忌避していているとか。鬼越では里見の残党が粟畑で潜んでいましたが殺されてしまい、鬼越では粟を植えないといいます。また、北条氏がとうもろこし畑に潜んで襲撃したことから、国府台ではトウモロコシを栽培しないという俗信があります。あくまで口伝であるため、信憑性はありません。

○「国府台古戦場・里見公園」(市川市国府台)

市川市北部は、標高20〜30mの台地と段丘の地勢となっています。国府台城は、江戸川沿いの国分台地に築城されており、『成田参詣記』では国府台城を市川城としています。江戸川が坂東一の川であったことから、「いちのかわ」が転じて市川と呼ぶようになった説があり、それならば江戸川沿いの国府台城が市川城ということもうなずける。

市川市国府台にある里見公園は、花見の名所になっていますが、ここはかつて国府台城でした。文明11年(1479)、太田道灌の弟・太田資忠が臼井城を攻めるために築城したのが、国府台城とされます。その臼井城合戦で、太田資忠は討ち死にしています。また、『鎌倉大草紙』によれば、下総国境根原合戦を前に太田道灌が仮の陣城を構えたとあり、これが国府台城であるという説もあります。第一次/二次国府台合戦は、下総国支配の決定戦だったといえます。戦後、国府台城は北条氏によってさらに規模が拡張強化されました。当時は、真間山(弘法寺)から松戸駅東側(相模台城)までを国府台と呼んでいました。標高20mほどの段丘にある国府台城、西には江戸川が流れており天然の要害となっています。江戸川を見下ろせる高台に位置する国府台城は、下総国を制覇するための要の城といえます。なお、国府台城は別称で里見城ともいいます。登城口(里見公園の南斜面下)には、「羅漢の井」があります。国府台合戦にて里見氏が国府台城に布陣しましたが、このときに飲用水として使用したと伝わっています。一説には弘法大師が発見し、里人の飲用水とな\xA4

辰燭箸發いい泙后0貳姪Ľ帽眤罎世反爾ぐ羝佑魴,蕕覆い反絽擦魍諒櫃任④泙擦鵑❶ゟ馼楝羮襪任聾什澆眄郷紊ⓜ唎い討い訥舛靴ぞ貊蠅任后4袷瓦砲覆唎覆辰唇箙修發△蠅泙垢❶∨拈擇箒曨戮琉貮瑤六弔辰討い泙后◀發箸發箸鰐生邑妬唎任△蝓⊅老舛魍萢僂靴特枉襪気譴燭茲Δ任后\xA3

【明戸古墳】

国府台城の一部は、もともと明戸古墳(あけどこふん)であり、6世紀頃に造られた全長40mの前方後円墳です。板石を組み合わせた箱式石棺が、そのままの位置で2基出土しています。太田道灌国府台城を陣城として築城したときに、発掘されたとも考えられています。この石棺のフタは里見公園にある「夜泣き石」の台座に使われています。石材は筑波石で筑波山麓から切りだされて水運を利用して運ばれたと考えられます。国府台合戦で討ち死にした、里見弘次および正木大膳の墓だと寺僧が伝えてきたようですが、江戸名所図会でそれは誤りだとさらりと否定されています。この石棺では、6世紀頃の豪族の夫婦がペアで埋葬されていたと考えられます。なお、市川市には前方後円墳と思われる古墳が、3基が残されており、「弘法寺弘法寺古墳、東京医科歯科大学付属病院構内の法王塚古墳、里見公園の明戸古墳」があります。

【泣き石伝説】

合戦の後、ある戦死した武将の姫が父の弔いのため、遠く安房国からやっとの思いで国府台にたどり着きました。ところが、戦場跡のあまりの惨い光景に身も心も疲れ果て、近くにあった石に寄りかかってすすり泣きながら、父の名を呼び続け、ついには息絶えてしまったといいます。その後、夜になるとこの石からすすり泣きの声が聞こえることから、「夜泣き石」と呼ばれるようになりましたが、通りすがりの武士が姫の無念を憐れんで供養を行ったところ、すすり泣きは収まったそうです。またこの石は、かつて明戸古墳の石棺の付近にあったことから、元は石棺の蓋だったのではないかという説があります

【里見軍将士亡霊の碑】

ちなみに戦死した正木信茂の妻・種姫は、出家して尼になり、隠遁生活をして余生を過ごしました。そしてこの種姫こそが、南総里見八犬伝に登場する伏姫のモデルになった人物だともいわれています。

【鐘掛けの松・鐘ヶ淵伝説】

鐘掛けの松・鐘ヶ淵伝説は、里見軍が松にかけたまま残した鐘にまつわる伝説です。里見軍が敗走したあと、国府台城を占領した北条氏の兵たちは、松の木に掛けられた鐘を鳴らそうとしました。ところが、どんな怪力の持ち主でも一向に音がならず大騒ぎとなりました。ある兵が、捕えた里見方の娘にこれをつかせたところ、「ごおーん」という大きな音とともに松の枝が折れ、江戸川に転がり落ちたということです。以後、この松を「鐘掛けの松」、鐘が落ちた江戸川の淵を「鐘ヶ淵」と呼ぶようになりました。残念ながら、長い年月の間に江戸川沿いの斜面林の松の木はほとんどなくなってしまい、正確な位置ははっきりしません。

【矢切】

永禄6年(1563)の戦いで、大激戦が繰り広げられたという矢切。ちなみにこの矢切という地名の由来は、国府台合戦にあるようで、この戦乱に大変苦しんだ当地の住人が弓矢を呪うあまり、「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれたと伝承されています。

【相模台】

松戸市役所や駅周辺の市街地などに、突き出すような形でそびえる高台が「相模台」です。公園に入るとすぐ相模台の歴史を説明する看板があって、しっかり国府台合戦についての記述があります。台地上は教育施設や公園などとして使用されていて、遺構などは全く残されていませんが、聖徳大学のキャンパス内に「経世塚」という供養塚が残されています。